「性と生の解放」の始まり

2022.09.22.

39歳になってようやく性というものに興味が持てた。(思春期かな。w)


元々性欲は決して強いわけでなく、

お付き合いした人とだけ関係性を持つ、

セックスの探求はしなかった、

フェムテックアイテムを使うことに対して嫌悪感を持っていた。

(その時、気持ちよくなかった。w)


妊娠してからはさらに性欲はなくなり、

この8年間(2022年7月末)でトータルで手足の指で数えるほどだ。


今は、旦那がいるが、彼の性欲は至って正常でたまに誘われたりもしたけど、

私の返す言葉は酷いものだった。


「無理!」「触らないで!もうやめて!」「来週ね!(という3−4ヶ月後)」

時に、枕を盾にして触らないで攻撃もしていた。


男としてのメンツはさぞ潰れたと思うが、強靭(狂人?)の心の持ち主、再度誘ってくるからすごいものだ。w


今、思うと産後のホルモンバランスの崩れと女性性が育っていなかったということが原因だと思う。


7月に、あるトレーニングを受けた。

きっかけは、信頼している人に、「受けてみて」と言われたから。

何をするかも何も分かってなかったし、期待せずに参加した。


直感で参加を決めたトレーニング後は

「意識が拡張」していくようになった感覚が幾度もあり、

それは人生を大きく変えてくれたと思っている。


性を通して、自分の理解を深めた。


全ては自分次第で、「世界の見え方」は変化する。


瞬間瞬間に、人との繋がりを深く感じたり、見える景色が美しく感じられるようになった。


主に下記の5つの気づきがあった。

どこまで書けるか分からないけれど、新鮮なうちに書き残しておきたい。


1、女性性の存在に気づく

2、寛ぐことと委ねること

3、エクスタシー

4、性と生

5、局部以外でのオーガズム


性に対しての探求者は沢山いるし、

仕事にされてるプロの方もいるから私の気づきなんて子供じみてると思うんだけど、

幼少期から性に対して良いイメージがなかったので私にとってはこの気づきは、

人生での大きな気づきで今は新鮮だから失わないうちに言葉に残しておきたい。


そして、これらは、全て自分と繋がってることが大前提である。

自分をないがしろにして、他者に答えを求めていると体感できないものであるなと改めて気づく。

今回は序章。w


少しづつ上の5つのテーマについても書き残していきたい。


性は生の凝縮

性=自分の在り方

性やセックスに「自分という在り方」ものは凝縮しているように思える。

これはあくまでも私の持論だ。


自分の性やセックスを思い返して欲しい。

・自分がして欲しいことを相手に伝えられてるか

・相手に合わせて感じたふりをしてないか

・心が通じ合ってるか

・相手を感じられているか

・独りよがりになってないか

・自分の性をどう感じているのか


セックスを通して自分を見つめると、そこに「自分の在り方」がすごく凝縮しているように思える。


凝縮の内容は、現在の自分の在り方、過去の性に対して傷ついてきたことなどだ。


先日、インスタライブでお悩みを頂いた。

それは「男性に誘われると体目当てなんじゃないかと思ってしまう」ということ。

話を聞くと、性行為中、相手と繋がると感じたことはないとのことで、普段から友人や家族とも繋がるという感覚がないと言う。

最後に、自分と繋がってると感じてるかと質問したら、その方は、そこが問題であるかもしれないとのこと。

この方の問題は、まずは他者よりも「自分自身と繋がること」が課題である。


体や呼吸と繋がる、そして心と繋がる、感覚器官と繋がること。

自分で感じることができ、自分を信頼することができ、

初めて他者と交わり、感じ、繋がり、信頼することができると思う。


とにかく普通でいてちょうだいと言われ続けた幼少期

最近、6歳の娘から「ママは変わってるよね」ってよく言われる。

毎朝、裸で踊ったり瞑想したり、せっせとごま油を塗ってる姿を見たらそう思うのは当然か。w


こんな私だけど、成人になるまで母に「とにかく普通でいてちょうだい」と言われ続けていた。


誰もが家庭環境での問題を抱えているのは十分承知。うちの父は、愛人とマンションに住み子供つくるし、さらに今、私の娘と同じくらいの子供がいるとかいないとか。

他にもあるけどここでは書けないような人だ。

(でも瞑想仲間に言語化し自己開示したおかげで私のルーツという認識ができ、父が好き!と再認識したことは良かった。)


いわゆる捨て子で自分の親の愛情を受けずに育った母は、子供達の愛し方も不器用で、母と楽しい思い出を思い出してと言われた時に、「耳かきしてもらった」ことした出てこなかった。w

彼女は、私たちが幼い頃近所の人たちにバッシング的な目にも合ってるし、父が目立つ人だからか、「とにかく普通に育ってちょうだい」と子供たちに言っていた。

私は母の言うことを信じて、とにかく目立たないように静かに過ごしていた。

人前で何かすること、表現すること(踊り、歌など)や人前で走ることなどもできなくなった時があった。

初体験が高校生のとき、普通=良いが意識の定着をしてるから、普通のように装ってたし、その時は表現の仕方も分からなかった。

それがベースとなって「いかに普通でいるかを装って」、年齢を重ねてきた気がする。

本来は、自分と繋がって、目の前の人とお互いを確かめ合い、自然な反応を起こすものであると思うけどね。

アクティブに身体を動かす瞑想

トレーニングの主催者との約束でトレーニング内容は開示できない。

トレーニング中に行ったことは全て身体をダイナミックに動かして自分で体験すること。

A +B=Cなんて答えは、主催者は持っていないし、人はみんな違うから答えはひとつじゃない。

私は途中から、第1、2チャクラをすごく感じ、骨盤周辺が常に燃えてる感じがした。

膣はパンパンしていて、したくなる感覚だ。

だからと言って、局部を触れたいわけでなく、むしろ触れられたくもない。

それら体験が、8年間の抑圧された性欲や女性性を取り戻してくれたと思っている。



最終日、こう思えたことはとても印象深い。

「世界はなんて美しいんだろう。窓の外から見える木々が揺れることが美しくて。

自分があるだけで満たされている。」

私もそうだけど、マインドでマインドって変えること難しい。

体験がマインドを変えるものであるとこの体験を通して確信した。

だからこそ、私は座って黙々と考えることよりも

今は体験にエネルギーと時間を注いで、その後に考えることをしたいと思っている。


性と生、私の人生の範囲が広すぎて、なかなか上手にまとめられないんだけど、

とりあえず言葉を残しておきたい。


今回の序章は終わり!


まだまだ続く。